世代を超えて
守りたい「佐賀牛」ブランド
2016年 毎日農業記録賞 優秀賞
中山牧場 中山敬子
中山牧場 中山敬子
takako nakayama
私の中山牧場での「牛飼い」のきっかけ
それは、私の高校卒業が間近になった頃の父親の一言でした。
「卒業したら家業を手伝わにやいかんと。」
半ば強制的だった。将来の目的もなくやりたいことも見いだせないまま私は中途半端な気持ちで高校卒業後家業についた。数年が経過し牧場の現場で牛を育てることで自分の居場所を見つけどうせするなら一生懸命しようと決めた頃父と些細なことで言い争いになり「俺が言うやり方をしろ」と傲慢な言葉にかなりの腹ただしさを覚えた「そんならいい牛育ててやってやる。」と、負けん気の強い私は更に牛を育てることに一生懸命やって来ました。
我が家は勉強より家業、5人の子供達は学校から帰ると牛舎で過ごす事は当たり前。とにかく、できてもできなくても「おまえがやれ!」という父の強引なやり方に親が子供を信じてさせるという事を教えられた。大人並に何でもやらされながらも自然に牧場の仕事にのめりこんでいきました。平成元年に父の経営を引き継いだ兄も同じような気持ちがあったのではと思います。
農協職員だった父と母が、
手探りで始めた牛飼いの道。
昭和43年、肉用牛の牛を飼う肥育牛農家は県内でも少ない時、両親は、3頭のホルスタイン導入から取り組み、昭和47年には将来性を見据え黒毛和牛の肥育をスタート。昭和48年のオイルショック、昭和57年の和牛子牛価格の暴落、平成13年のBSE問題の発生という経済の荒波を乗り越え、持ち前のパワーと仲間や関係機関との連携で現在の基礎を築いてくれました。平成5年から法人化し、農事組合法人「中山牧場」となり、雇用の確保と経営管理面が改善されていったようです。
当時の畜産経営は、試行錯誤の日々。景気が悪くなると餌の経費が高くなり、牛を飼う日数を重ねるごとに経費と負債は増えていきます。肥育して出荷された牛の価格では経費の元が取れないので、精神的にも借金が背中に積み重なるような時代もあったといいます。
産地が一丸となって動いた結果、現在では、「佐賀牛」ブランドも確立し、平成12年より子牛を育てる繁殖牛部門に本格的に取り組みました。牧場内で生まれた子牛は全頭牧場内で美味しい牛肉に仕上げる肥育まで行っています。飼養頭数は、平成28年3月で肥育牛1,860頭、繁殖牛140頭となっています。
農家の強みを活かして商品化
平成9年に食肉販売事業部を立ち上げ、中山牧場が生産した牛肉の加工直売・レストハウス営業を始めたのも、父の一言。食肉販売の知識も経験もないままやってみると大変だったけどやれることはすべてやりました。まずは、直営のレストハウスでは地元の人に牧場で生産された牛肉を焼肉で食べてもらうようにしました。また、肉の直売店舗では、精肉販売だけでなく、自家製ハンバーグやタタキの加工品も販売しました。縁あって食肉衛生管理者の資格も4年がかりで平成18年に取得し通信販売をできるまでにしました。
肥育牛農家が直売する強みは、出荷した牛を自分の目で見「一頭買い」でせり落とし、一頭分の肉を手に入れる事。これを、あますことなくブロックに処理・加工して提供しました。ロース、バラ、ヒレ、モモなどの一般的な肉の単品商品やセット販売だけでなく、ミスジ、ザブトン、三角バラ、イチボなど、あまり知られていない部位を「焼肉通好みの希少部位」として販売できました。生産農家ならではの肉のおいしさを損なわないため、真空パックでの冷凍流通が主力で、宅配で全国に発送することができています。
平成23年、国内での食中毒での事件後、全国的にもレバーの生食をしないようになった事をきっかけに、牛レバニラ炒めや牛モツ鍋など惣菜加工品の手軽で簡単な冷凍商品を開発し、加工所の施設も商品にあわせて整備しました。1人分の最小単位でレンジを利用する「ひとりで楽チンシリーズ」の始まりです。
「佐賀牛」がわかってもらえてない、
もっと説明しなきゃ
現在、全国には200種類以上のブランド牛肉があると言われていますが、その中でも「佐賀牛」は全国で二番目に格付け基準の厳しいブランド牛肉です。豊かな香りとうまみが特徴の黒毛和牛の中でもトップレベルです。
日本食肉格付協会では、「霜降りの入り具合(BMS)1~12」「肉の色つや」「肉質のきめとしまり」「脂肪の色つや」などによって、肉質を1~5等級に分類しています。ブランド名「佐賀牛」は、その4等級(BMS7)以上と定めています。この厳しいブランド基準により品質の高い肉質づくりと安定出荷の努力がなされています。
販売するからには、お客様に商品説明をしないといけません。しかし、これまでの説明と文章で理解できるでしょうか?
直売店舗で直接お客様と話していると、「佐賀で飼育されている牛は全て佐賀牛である」という一部消費者の方たちの誤解も知りました。肉の品質を表す肉質等級はとても複雑で一言で説明するには難しかったのですが、そんな消費者の誤解を解いて、お客様に理解して納得して買ってもらいたいと強く思うようになりました。商品のラインナップだけでなく、もっと牧場を理解してもらう情報発信が必要だったのです。
そこで佐賀県の専門家派遣制度による商品デザインのアドバイスをうけ、中山牧場独自の統一したイメージのパッケージデザインと情報提供のチラシ作成を委託し開発を行いました。
商品の案内、「佐賀牛」の説明だけでなく力を注いだのは、従業員・仲間の笑顔、牛を育てる現場の想いをパンフレットに載せて、等身大の中山牧場を表現する「中山牧場通信」シリーズの発行。生産から販売また消費者から生産へと気持ちが循環するのを願い、買っていただいたお客様への伝えたい気持ちから商品に同封するようになり、中山牧場の牛肉は全国の皆様にご愛顧いただけるようになりました。
おいしい牛肉の原点は畜舎での育て方
平成17年に年間約120頭分(年間出荷頭数の1割)の牛肉を直販するようになった頃、「牛飼い」だった私が「食肉加工業者」になって判ってきた事があります。それは、食材として品質が良くないと判っている牛肉は、調理・加工しても美味しくないという事。ましてやそんな品質の肉は販売するに値しないという事です。病気や怪我をしていたり、出荷できる状態に成熟していない牛は美味しい肉にならない。シンプルな食材に、ごまかしはきかないのです。
畜舎の牛の頭数が増えた後は、決まって「佐賀牛」の割合が減り、肉質が落ちている。毎日肉を触って見ている加工場で私は、牛舎での生産環境や牛の状態に気付き始めました。
つまり、生産する段階で、いかに病気をさせないで健康に育てるかが重要、その為にはエサをやり飼育するだけではなく、牛に愛情をもって牛を観る、牛を診る、牛を視ると(目配り、気配り、心配り)牛舎で接し育てる事で、ストレスのない美味しい肉になると確信しました。
この事が判ってきた時期は、前述の、プロの会社に委託して作った情報提供チラシ「中山牧場通信」ができた頃と一致します。紙面で牛に関わる情報、畜舎の様子や従業員の仲間を紹介し、消費者にわかりやすく牧場と商品を説明するものでしたが、牧場の従業員にとってもわかりやすい内容でした。結果、従業員のみんなが、どのような考えで牛に接していくべきか示すこととなり、牧場全体の意識統一にもつながりました。
物づくりの前に人を育てる必要性があったのです。
父からもらった「牛飼い」のおもしろさ
人づくりの大切さを知った私は、経営が大きくなり牛の頭数と共に雇用する従業員も増えたので、畜舎にも足を運び、経営主である兄の経営方針や技術がうまく認識・実践されるように工夫していきました。すると肉質もよくなり成績も持ち直してきました。この時、家業の牛飼いは、私の天職と意識するようになりました。今は、出荷される牛一頭一頭に「立派に成長してくれてありがとう」という気持ちでいっぱいです。
自らも直売所連絡会の研修など勉強の場へ出かける機会をつくりました。法人経営が縁で、県法人協会や玄海町商工会、唐津市観光協会等いろいろな業種の方と交流ができました。県の農政審議会にも委員として出席し農業情勢等の勉強や同じ県内で農業経営に取組む仲間もでき、「佐賀牛」ブランドや地域の将来も少しずつ考えるようになりました。
子から孫へ、これから、
三代目の活躍に期待
経営主である兄の長男(私の甥)は、中学生の時に始めて牛の「と蓄」現場に行き、頭を打ちぬかれ首を切られ吊るされる姿を見て、畜産という仕事への覚悟を決めたようです。自ら選択し、農業系の高校・大学へ進学しました。その従兄弟である私の長男も、平成27年に食肉販売事業部を独立させ株式会社中山牧場となった経営を引き継ぐことになりました。牛の命の大切さを理解して生産する事、生産を理解し命をつなぐ販売と。孫達それぞれが連携プレーで祖父母に負けない夢を抱いて経営に加わるところは、中山牧場では子も孫も同じようです。つないでいく経営、それが佐賀牛ブランドを守り抜く事。
平成28年度秋からレストハウスの店舗をもうひとつオープンさせました。また、中山牧場の牛に加えて、地元「唐津・玄海」の畜産農家が育てた牛の取扱いを開始しました。これまで18年間の食肉加工販売で学んできた事を、若手生産者にも伝えていきたい、共有する事で、地域一丸となってさらなる佐賀牛ブランドの信頼を築き守っていきたいと思っております。